卒業生からのメッセージ

英語と苦闘しながら思索にふけった新聞記者の2年間

産経新聞東京本社編集局政治部長 中静敬一郎 第1期卒業(国際安全保障コース)

中静敬一郎

一九七五年、神奈川県警のサツ回り記者を振り出しに横浜総局、整理部、政治部と、「なぜこんなに忙しいのかな」と思える生活を続けていた私に、大学院での研修が打診されたのは一九九六年暮れだった。「防衛大学校で勉強できるチャンスがあるが、どうするか」。当時の編集局長からの問いかけにこう答えたことを覚えている。「やらせてください」。即答したのは、勉強してこなかった自分に焦りがあったからである。

新聞記者は例えば、外務省担当になったその日から、外交専門記者になる。それなりの準備を怠りなく積んでいるという前提があるわけだが、なかなかそうはいかない。その場合、てっとり早いのは一番わかっている人から取材し、そのエッセンスを上手に処理することである。すべての問題に精通することが難しいうえ、締め切りがあるジャーナリズムの世界にとっては、こうした手法をいかにてきぱきと行うかを求められている。

しかし、これはきちんとわかっている人がいることで成り立つ仕組みであり、わかっている人がいない、もしくは、だれもわからない新たな分野であれば、どうすればよいのかという問題が生ずる。さらに知識の上澄みを受け売りしている自分はどの程度、問題の本質を捉えているのだろうか、という疑問を持つようにもなっていた。自分で疑問を解き明かすことができたらな、と思っていた矢先に防大研究科の話が舞い込んだわけである。当時の私の関心は、日本の安全保障のあり方、とくに日米安保体制の将来像にあった。だが、それは自分勝手な推論や憶測で終わるという危険性をはらんでいた。逆に安保条約の双務性や同盟が抱える脆さなどを形作った「生い立ち」を知ることによって、将来の方向性が見えてくるのではないかという思いを持つに至った。

修士論文のテーマを「日米(旧)安全保障条約の形成過程ー日本の『集団安全保障』対応」に定めたのは総合安保研究科に入校してから半年後だった。週末は東京でのデスクワーク、月曜日から金曜日までは防大学生寮に泊まり込んでの勉学生活。そこにはこれまでなかった時間、勉学の場、すぐれた教官陣が存在していた。あとは意欲のみ。48歳の私にとっては後にはひけない最後のチャンスでもあった。

そうして、日米双方の外交史料を読み始めたが、最大の障害は英語力であった。大学卒業してから二十年余、英文に目をそむけてきたつけが一気に回ってきたと後悔するような惨たんたる英語力では、十時間かけてもたった数ページしか進まない悲惨な日々が続いた。それでも悪戦苦闘を続けることができたのは、ある教官の「一日十五時間、一年間読み続ければ、力はつきますよ」という一言であった。勉強の機会、考える時間を持てたことは幸せには違いないが、私にこんなチャンスを与えてくれた日本国への恩返しをどうすればよいのだろうか。この宿題には、いまだ答えを出さないままになっている。

中静敬一郎
1950年新潟市生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、産経新聞東京本社入社。横浜総局整理部を経て、1985年より政治部勤務。首相官邸、自民党、外務省などの担当を経て、1995年政治部次長。1997年より99年まで安全保障研究科で学び、99年7月に政治部長就任。

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