アメリカ空軍士官学校派遣成果報告

杉山 弥生(右側)
私、杉山学生は、
NATIONAL CHARACTER & LEADERSHIP SYMPOSIUM(通称NCLS)
に参加するため、平成16年2月9日から16日までの約1週間の日程でコロラドスプリングスにある空軍士官学校(USAFA)に滞在してきました。なお、派遣報告が派遣から半年たっていることには目をつぶってください。学科に提出する派遣報告ということで、実際に提出した派遣報告よりも少しやわらかい内容にしようと思います。
【派遣前】
私たちが派遣に決まったのは12月上旬でした。今回の会議のテーマは
『TEAMWORK〜Honorably Working Together to Achieve Excellence』
であり、これに即した内容で論文を作成し、約1ヵ月後にNCLSの方に提出しなくてはなりませんでした。ただでさえ論文を書くのは苦手なのに、さらに英訳しなくてはならず、時間的にも苦しいものでした。私が最終的に選んだ題材は
「江戸の町火消し」
で、これに自分自身の体験を付け加えることにしました。当初、NCLSに送る論文は防衛大学校から1部ということになっていたのですが、私ももう1人の学生もがんばったということで、論文を2部送ることができました。さらに、参加者の中から4名選ばれて、舞台上で自分の論文を発表することができるのですが、その発表論文に2人とも選ばれ、ここまで頑張ったかいがあったと喜びました。
私が出発までにクリアしなくてはならない大きなことがもう1つありました。実は出発前日の8日まで1週間「寒稽古」がありました。OBである当時の留学生係楢崎3佐は「これから1週間、稽古ができないのだからしっかりやっていけ。」といわんばかりの稽古をつけてくださりました。
【派遣途中】
成田からシアトル、シアトルからデンバー、デンバーからコロラドスプリングスと飛行機を乗り継ぎ、乗り継ぎの時間も含め、全部で16時間かかりようやく空軍士官学校にたどり着きました。日本との時差は8時間。途中の空港ではテロ対策に力を入れており、シアトル〜デンバー間では持ち主立会い無しの荷物チェックのためにスーツケースの鍵を開けて荷物を流し、身体検査では、靴もスーツもすべて脱がなくてはならないというほどでした。機内では時差ぼけをおこしながら2人で発表のつめをしていました。シアトル・タコマ空港は非常に大きく、乗り継ぎの飛行機のゲートを探すのにも一苦労でした。デンバーまでの飛行機の中で、出されたコーヒーとミルクティーをすきっ腹にいれ(カップはアメリカンサイズでした)、胃が痛くなり、昼食が食べられなくなりましたが、牛乳を飲んで乗り継ぎ待ちの間にあっさり回復。デンバーに着陸する直前に見た景色は一面の雪景色で、ただひたすら平面で、山も無くずっと向こうまで見渡せました。コロラドスプリングスについて、出迎えをしてくれた学生の車で夕食へ。そこで買ったものは、見た目は揚げる前の春巻のようなブリトーと呼ばれるメキシコ料理で、豆、肉、ご飯、ソースをタコスの皮を大きくしたようなもので巻いたものでした。おいしかったのですが、何しろアメリカンサイズ、全部はさすがに食べ切れませんでした。その日はバスケットボールの試合をしているということで試合観戦にいきました。地元の大学との試合だったのですが、テレビ局は来ているし、チアリーダーたちが必死に応援しており、夜八時をまわっているのに体育館の中は熱気に包まれていました。学生寮に着くと時差ぼけの関係と旅の疲れですぐに寝付いてしまいました。
【USAFAについて】
アメリカ空軍士官学校(以下USAFA)は全校生徒4000人で、学校の門をくぐってから、学生寮(ドームといいます)まで車で10分以上かかるような大きな学校です。防大とは違い、ドームは2つで、学生隊の中に36個のSQUAD(飛行隊)があるという仕組みでした。私はメインエスコートのローラ・ハンセン学生の所属する26SQUADに所属することになりました。各飛行隊にはマスコットキャラクターがいて、26SQUADはスヌーピーでした。各部屋は同学年の2人部屋で、女子フロアというものは存在しませんでした。銃も各人の部屋に格納されていました。起床時間、消灯時間などのスケジュールは一応決まっていますが、割とあいまいな部分があります。消灯後でも勉強をしたかったらしてもいいし、お風呂はシャワーでいつ使ってもいいということでした。居室と寝室は同じで、3年生からは冷蔵庫、4年生はテレビを自室においていいことになっていました。机の前の壁(防大で言うと本棚のある付近)には家族や恋人の写真がべたべたと貼ってあり、私の同部屋の学生は恋人とのキスシーンの写真を貼っていました。「この人が私の恋人よ。」と紹介してくれましたが、このあたりは日本人とは違うなあと感じました。さらに、「 " I LOVE YOU "は日本語でどういうの?」と聞かれて困りました。「『愛してるよ』・・・かなあ・・?」・・・日本語に訳せない言葉もあるのだと実感しました。
【派遣先で】
ここからは、派遣中に書いていた日記を元にして、書いていきたいと思います。今回の会議中は通常授業も行われているため、メインエスコートがずっと私たちに付くことはできないので、6名の日本語クラス選択の学生がかわるがわるエスコートをしてくれました。午前が講義、午後が討議でした。講義はいくつもある中から1つ自分の聴講したいものを選択するという方式で、討議は円卓会議で、各人好きなテーブルについて、論文発表を聞いてその人の述べた " TEAMWORK "について話し合うというものでした。
2月10日
朝0630起床、0700から食事。食事は防大と違い、テーブルに既に置かれており、それを取り分けて食べるという方式。部屋に帰ってからUSAFAのアルバムのようなものをローラに見せてもらう。彼女は合気道部に所属しているのでその写真ののったページを見せてもらう。日本の武道を行うクラブは柔道、合気道などであったが、中でも目を引いたのが「忍術クラブ」。写真から推測するに、手裏剣などを投げる練習もしているようだった。(手裏剣を投げるための的と思しきものが写っていた。)この日はまだ会議が始まっておらず、通常授業に参加させてもらう。ローラは歴史学を専攻する学生であり、人間文化学科に近い授業を受けることができた。まずはじめは哲学。トマス・ホッブズについてであったが、ほとんどわからなかった。次にアメリカ史の授業へ。ボストン茶会事件のことであり、これは学科で習っていたので、知識を総動員して理解することができた。午後はチャペルへ。学校内にチャペルがあり、ここで結婚式を挙げる人も多いらしい。派遣最終日には実際に結婚式の様子を見ることができた。チャペルは二階建てで、上がプロテスタントで、下がユダヤ教とカトリックだった。夜にふと空を見上げると満天の星。ロッキー山脈の麓に位置するコロラドスプリングスは空気がきれいなので地平線近くまで星を見ることができた。
2月11日
会議初日、会議場でコンチネンタルブレックファーストという簡単な朝食をいただく。ジュースと甘いパンやマフィンやクッキーが置かれており、各人好きなだけとって食べる。食後、時間があったので日本語クラスを訪れた。日本語クラスの先生は日本人の女性の教官だった。その教官が言うには、USAFAの学生は卒業後任地がどこになるかわからないので、日本語の習得とともに外国語の勉強の仕方を身につけさせているということだった。LL教室のようなところで学生はパソコンを使って勉強をしており、教官と1対1でスピーチもしていた。次に、航空自衛隊から防衛学の教官として派遣されている35期の松嶋3佐(通称Mac Matsushima)を訪問した。午後の円卓会議で、私と相方は、大佐で退官されたUSAFAのOBの方と一般大卒の幹部候補生と一緒になった。論文発表の1番最初は私の相方であり、彼女の述べた " TEAMWORK "はトップのいない " TEAMWORK "で、強い倫理観をもった構成員が肩を並べて一つの目標に向かって協力していくというものだった。夕飯はビュッフェ形式で、会議参加者全員がコミュニケーションを取れるようにしてあった。この会議の参加者は、ウエストポイント、アナポリス、コロラドスプリングス、アメリカの一般大学、一般企業、退官された将校の方、そしてカナダと日本の士官候補生だった。夕食後はUSAFAの第一期生の講演を聴講する。慣れない英語と会議でくたくたになり、ベッドに入るとすぐに記憶が無くなった。
2月12日
会議2日目。朝の講義は日本の講義とは少し違う面を見ることができた。これはすべての基調講演や講義に言えることだったのだが、講師は1人1人の目を見ながら訴えかけ、講義場をすみからすみまで動きまわるのである。1番訴えたいところは強いアクセントとジェスチャーをもって聴衆に理解を求めていた。昼食を取ってすぐに基調講演があった。「タイタンズを忘れない」のモチーフとなった監督が来てくださって、大ホールで講演してくれた。その講師は最後に " GOD BLESS AMERICA "といって締めくくった。私にはこの言葉は非常に印象的だった。午後の討議の最初に私が論文を発表することになった。「町火消し」という日本独特なものが題材なので、視覚的に訴えられる資料をテーブルに配った。 " Do you know Machihikeshi? " の質問には予想通り、 " No〜!"という答えが返ってきた。ローラが論文発表のときに見に来てくれており、" Great!"といって激励してくれた。会議場の一角には "Dolittle Tokyo Riders " というガラスケースに入った展示品があった。そこには東京空襲に参加したパイロット全ての名前が1つ1つのワイングラスに掘ってあり、そのパイロットが死んだらカップを逆さにし、生きていたらそのままにしてあるというものだった。ガラスケースの下には、東京空襲のことがかかれてあり、日本とアメリカの過去の関係も目の当たりに出来た。数個のカップはまだそのままになっていた。また、同じホールの別の壁にはUSAFA出身の宇宙飛行士の顔写真がかけてあった。ドームに帰ると、バレンタインデーが近いということで、男子学生が部屋にやってきて、メッセージカードつきの薔薇の花を置いていったり、お菓子を持ってきたり、アメリカのバレンタインデーのあり方を直に見ることができた。私もお菓子をもらい、日本から持ってきたお菓子をお返しに渡して喜ばれた。
2月13日
会議3日目、最終日。USAFAでは毎週金曜日は迷彩服と半長靴(combat bootsという)ですごさなくてはいけないらしく、どこもかしこも迷彩服の学生であふれかえっていた。この日の朝の講義は日本に関することがあったのでそれを選択することにした。題名は
"History's Other Lesson : The Butler and the Broadcaster"
で、ポツダム宣言時の日本の動きについてであった。昼食を兼ねた講義を聴講し、続く閉会式で日本からもって来た記念品の贈呈式を会議参加者全員の前で開いてもらえることになった。このときに相方と一つのパフォーマンスをすることにした。それは、私が日本語で挨拶をし、それを相方が英語に訳すというものであった。「皆さんこんにちは、始めまして。」の挨拶に、会場から "Konnichiwa〜!" の返答があるのがうれしかった。記念品を女性パイロットの方(恐らく中将)にお渡しし、最後におじぎをして退場した。
会議が終わってのお楽しみとして、ローラに乗馬に連れて行ってもらった。乗馬は初めてであったが、インストラクターもおらず、まさに「体で覚えろ」の世界であった。私の借りた馬は " Paches " という名前だった。道端に落ちている草を食べるほどの食いしん坊で、乗り手の言うことを聞かないじゃじゃ馬だった。いつだったか、乗り手に馬は似るという話を聞いたことがあったが、あながち間違いではないと感じた。2月14日
朝0930起床。昨日の夜話がこたえたらしい。空港まで送ってもらい、6月に防大であうことを約束しつつローラと別れる。シアトルに着いたのは1914であり、ホテルにたどり着くのに一苦労。市内を走るバスはたくさんあり、さらにどこで乗ることができるのかもわからない状態。道行く人に聞いて、さらにバスの運転手が「特別に直接ホテルに送り届けてあげますよ。」と言ってくれた。旅先で受けた親切心にジンとなる。ホテルに着いたのは2030であったが、街の雰囲気を味わいに外出した。街は多くの人であふれかえっていたが、バレンタインデーということもあってカップルが多かった。特に私が驚いたのは初老のカップルが割と多くいることだった。年をとっても仲良し、まさに「チャーミーグリーン」の世界。ドレスアップした初老のカップルが腕を組んで街を歩く姿は、映画のワンシーンみたいだった。
【派遣後の所感】
自衛隊のイラク派遣についてだとか、イラクに対するアメリカの対応をどう考えるかなどをちょっとした時に聞かれることがありましたが、日本語なら言うことが可能でも、とっさに英語が出てこず、さらに細かいニュアンスなどは私の英語能力では伝えきることが出来ないなど、非常に悔しい思いをしました。会議の席でも、話している内容を聞き取ること出来ず、同じテーブルの人を待たせてもう一度説明してもらうことなどがかなりありました。また、話の流れがわかっても、自分の言いたいことをまとめている内にすでに話は先に進んでいて、自分の意見は時代遅れになっていることもありました。常に悔しさでいっぱいでした。日常会話程度なら単語を並べても通じますが、会議で話の流れを聞き取り、自分の思ったことを的確に伝えることはひじょうに難しく、自分の英語能力を思い知り、伝わることのうれしさと、伝えきれないもどかしさ、悔しさの両方を経験しました。
今回私をエスコートしてくれたローラ・ハンセン学生は6月の上旬に日本語研修プログラムの一環として1週間ほど防大に滞在し、今度は私がエスコート学生として彼女とともに生活することが出来ました。彼女とのやりとりは今でも続いており、このような友人を作る機会を得られたことを非常にうれしく思います。このような機会を与えて下さった方々、派遣先でお世話になった方々、そして論文作成の際にお世話になった、人間文化学科、外国語教育室、防衛学の教官全てにこの場を借りて深くお礼申し上げます。ありがとうございました。以上で派遣成果報告を終わります。
