はじめに 安政5カ国条約(1858)で神奈川開港を約束した江戸幕府は、東海道の宿駅たる神奈川での
尊皇攘夷派の志士の襲撃を恐れ、砂嘴の漁村にすぎなかった横浜村を神奈川と言い張って開港した。
町のモデルは長崎県の出島。島に橋をかける方式でロックアウトしたわけであるが、
関所のあった橋の向こうを「関内」と呼び、今日にいたる。
横浜の歴史は、海上国際貿易の歴史でもある。船による輸送が主力産業であった時代こそが、
横浜が最も輝いた時代である。当時ヨーロッパでは養蚕業が病害のため危機に瀕しており、
生糸は茶とともに日本における最大の取引品目となった。八王子とつながるJR横浜線や
スカーフの生産が多い理由はここにある。
引率の田中図書館長
国際世界に組み込まれた横浜は、欧米文化の流入口でもあり、日本文化の海外への窓口でもあった。 教会・鉄道・電信・郵便・新聞・写真・国際金融基金・ホテル・石鹸・牛鍋・アイスクリーム・ビールなどなど、 横浜は西洋近代を象徴する文物であふれた。一方、最後のエキゾチックな国・日本の存在は、欧米の文化的関心を ジャポニズムで席巻したし、横浜はさっそく観光旅行の基地となった。
その後の横浜には何回かの困難が訪れる。第一は関東大震災、第二は太平洋戦争の戦災で、
いずれも壊滅的な打撃を受けている。第三は戦後、米軍により港の大半を接収されたことである。
横浜は長く戦争の傷跡を残した。そして、最大の困難は、ようやく接収から解放されたころには、海上輸送から航空輸送へと、
時代が移行していたことである。
大型海上輸送の基地の位置も千葉港に先取りされ、造船の需要は激減した。
横浜の再開発は、港町のイメージを利用した観光都市化によるところが大きい。
大戦中、潜水艦の攻撃から生き延びた幸運の客船・氷川丸、古きよき時代の旅を象徴するクイーンエリザベス号の大桟橋入港、
その入港を照準に高さを設定した横浜ベイブリッジ、マッカーサーも石原裕次郎も通ったグランドホテルのシーガーディアン、
造船ドックの形を模したコンサート会場、外人墓地、中華街、赤レンガ倉庫などなど。
私たちが日ごろなんとなくイメージしている「横浜」の表層、その原点をたどるのが、
今回の校外研修の目的である。私たちは教務班の学生委員4人を中心にして下調べを実施した後に研修に赴くこととなった。
13:00 課業整列集合。午前の課業が終了したあたりから、私たちの心はすでに横浜のレンガ造りの街並みに向かっていた。 人間文化学科第1期生として、初の校外研修の出発である。クルー会で(?)足を骨折して参加できずに学校にとどまった 小池学生を残して、バスは進み出した。


14:00 横浜開港資料館。この資料館は旧英国総領事館を利用して設立された。中庭の真ん中には1858年日米和親条約が 結ばれた玉楠の木があり、初夏のさわやかな日差しを浴びていた。資料館に到着して、館員の方が自己紹介された後に、私たちは 玉楠の木の下で写真を撮りあった。そして、観覧室に通されて、横浜で発行された国内初の英字新聞の実物を見せていただいた。 この英字新聞は色が褪せないように厳重に保管されており、館員の方も白手袋まで着用するという厳戒態勢ぶりに私たちはちょっと 驚いたが、それほどまでに貴重な資料であることは明白だった。新聞の内容は、その日入港する船舶の種類や、不動産などについての 情報誌、という感じであった。
この資料館の常設展示は、@「開港への道〜世界史の中の日本」A「街は語る〜開化ヨコハマ」に分けられる。@ではペリー来航とその前後の世界情勢がテーマで、横浜が国際交流の舞台となる前提が見て取れる内容になっている。Aでは、「横浜もののはじめ」を中心に、開化期において横浜が人的・物的に国際交流のステージとなった様子を体感できる。立体的なジオラマや当時の写真をバランスよく展示してあり、非常に見ごたえのあるものばかりであった。
17:00 Tycoonというエスニック・レストランに到着。新横浜の倉庫外に建てられたもので、倉庫を利用しているため、入った瞬間、店内の広さと天井の高さに驚いた。一段高いところにはVIP席と呼ぶにふさわしいリッチな席があり(別途料金が必要)、ベイブリッジ・マリンタワー・ランドマークといった横浜の夜景が一望できるオープンテラスもあり、ヨットが乗り付けられていた。そのあまりにも贅沢な造りに、バブル全盛期当時の華やかさが偲ばれて切ない気持ちにさえもなりそうだった。ここでは1989年の近鉄バッファローズ優勝の際に優勝記念祝賀会が行われたらしく、またしばしばテレビ撮影にも使われているらしい・・・・と、説明はこのくらいにして、私たちはジュースで、学科初の校外研修を乾杯した。それから続々と料理が出てきたが、一皿目の辛いこと辛いこと!さすがはエスニック。図書館長の田中教官も「私たち年配者の口には合わない」とおっしゃるし、フォローのしようもなかった。でも、時間がたつにつれてこの辛さにも慣れ、みんな和気あいあいと食べたり飲んだり、写真を取り合ったりした。みんな、心もお腹も満腹という感じだった。みんなにとっての今日のメインはこのレストランなのではないだろうかと思うほどであった。たとえアルコールはなくてもそこは若さでカバー、かなり盛り上がって話に花が咲いていた。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
18:30 学校に向かって出発。バスの中はTycoonの盛り上がりがそのまま続いていた。しかし道路は思いのほか渋滞しており、1900ころにまだ横浜にいたときには、日夕点呼免除は取っていなかったので、みんなようやく事態の深刻さに気づき、大隊当直幹部と連絡を取り合う松井学生の携帯電話に集中していた。その日の大隊当直幹部の早急な処置により、日夕点呼免除をとることができ、事故を未然に防ぐことができた。「日夕点呼免除」と聞いて胸をなでおろす1号舎の人々。しかし、その後はできる限り速やかに帰校した。1940ころ学校に到着した。 ハプニングもあったが、初めての校外研修は無事に終了した。午後からの研修だったため、博物館と資料館を回るというのはなかなか時間的に厳しかったが、非常に面白く、横浜の開港からの歩みが手に取るように理解することができた。 私たちは横浜に外出するとき、駅周辺で用事を済ませてしまいがちになっているが、少し足を伸ばして「関内」にまで来てみると、横浜の知らない一面について、思わぬ発見があるということに気づいた。今度は自分で、博物館や開港資料館にもう一度訪れて、もっと深く知りたいと思った。横浜まで出てきてショッピングや飲食だけで休日を過ごすのもいいが、こういうゆったりとした知的な休日を送るのも有意義でいいだろうと思う。