〜人間文化学科・校外研修レポート〜

横浜開港資料館・横浜ユーラシア文化館・神奈川県立歴史博物館

平成15年5月23日(金)



 今回、我々人間文化学科第3期生は「横浜を廻る歴史文化発掘」の校外研修を行った。
行き先は第1期生・第2期生に続き今回で3回目となる横浜開港資料館、第1期生に続く2回目となる神奈川県立歴史博物館、そして初の試みとなる横浜ユーラシア文化館の以上3ヶ所である。今回の研修は時間的余裕があったので、例年のような大きなハプニングも見られずスムーズなものであった。これはひとえに企画・立案・実施にあたり協力・支援してくださった人間文化学科の前嶋教官・井上教官・副田教官の多大なご尽力のたまものであると学生一同感謝しています。

始めに:「横浜」

 安政5カ国条約(1858)で神奈川開港を約束した江戸幕府は、東海道の宿駅たる神奈川での尊皇攘夷派の志士の襲撃を恐れ、砂嘴の漁村にすぎなかった横浜村を神奈川と言い張って開港した。この町のモデルは、長崎県の出島であったらしい。島に橋をかける方式でロックアウトしたわけであるが、関所のあった橋の向こうを「関内」と呼び、今日にいたる。

 横浜の歴史は、海上国際貿易の歴史でもある。船による輸送が主力産業であった時代こそが、横浜が最も輝いた時代である。当時ヨーロッパでは養蚕業が病害のため危機に瀕しており、生糸は茶とともに日本における最大の取引品目となった。八王子とつながるJR横浜線が敷かれたことやスカーフの生産が多い理由はここにある。

 国際世界に組み込まれた横浜は、欧米文化の流入口でもあり、日本文化の海外への窓口でもあった。教会・鉄道・電信・郵便・新聞・写真・国際金融基金・ホテル・石鹸・牛鍋・アイスクリーム・ビールなどの西洋近代を象徴する文物で、横浜はあふれた。一方、最後のエキゾチックな国・日本の存在は、欧米の文化的関心をジャポニズムで席巻したし、横浜はさっそく観光旅行の基地となった。

 その後の横浜には何回かの困難が訪れる。第一は関東大震災、第二は太平洋戦争の戦災で、いずれも壊滅的な打撃を受けている。第三は戦後、米軍により港の大半を接収されたことである。横浜は長く戦争の傷跡を残した。そして、最大の困難は、ようやく接収から解放されたころには、海上輸送から航空輸送へと、時代が移行していたことである。大型海上輸送の基地の位置も千葉港に先取りされ、造船の需要は激減した。横浜の再開発は、港町のイメージを利用した観光都市化によるところが大きい。例えば大戦中、潜水艦の攻撃から生き延びた幸運の客船・氷川丸、古きよき時代の旅を象徴するクイーンエリザベス号の大桟橋入港、その入港を照準に高さを設定した横浜ベイブリッジ、マッカーサーも石原裕次郎も通ったグランドホテルのシーガーディアン、造船ドックの形を模したコンサート会場、外人墓地、中華街、赤レンガ倉庫などが挙げられる。

 私たちが日ごろなんとなくイメージしている「横浜」の表層やその原点をたどるのが、今回の校外研修の目的である。それを通して日本文化の本質の一端、あるいはここから世界の文化というものを視覚的にとらえることができればと考えた。

1.横浜開港記念館

 この横浜開港資料館は旧英国総領事館を利用して設立された。 中庭の真ん中には1858年日米和親条約が結ばれた玉楠の木があり、 枝を大きく広げながら私達を真っ先に迎えてくれる。イメージにある資料館や博物館と違い、重苦しい雰囲気はなく、 軽やかな風貌が印象的だった。
 この資料館の常設展示は、@「開港への道〜世界史の中の日本」A「街は語る〜開化ヨコハマ」に 分けられる。
 @ではペリー来航とその前後の世界情勢がテーマで、横浜が国際交流の舞台となる前提が見て取れる内容になっている。 ペリーが乗ってきたサスケハナ号などの模型が展示されているほか、開港間もない横浜を描いた錦絵や写真などが展示されてある。 学生の中には小原台を探す姿もあり、なかなか苦戦しているようであった。
 Aでは、「横浜もののはじめ」を中心に、 文明開化期において横浜が人的・物的に世界へ開かれた港町として内外人の交流の窓口になったことが、 写真や街の模型から体感できる仕組みになっている。特に昔と今の街の様子をめくることのできる写真はかつてを視覚的に想像でき 面白く感じた。

 この日は特別展として「ある明治人の半生涯―『佐久間権蔵日記』に見る地方名望家と地域の歴史」が行われていた。 これは明治から昭和初期にかけて活躍した、佐久間権蔵の生い立ちと前半生の足跡、変貌する地域の様子を彼の残した日記と 莫大な資料を中心に展示されたものであった。特に昔のまま事実を伝え続ける新聞の存在は強烈であり、古き中に残る先人の足跡が、 強く私達を引きつけ、当時の思いが迫ってくるものであった。

2.横浜ユーラシア文化館

 ユーラシアとは、ヨーロッパとアジアを合わせた広大な地域である。ここ 横浜ユーラシア文化館では、ユーラシア大陸を舞台に繰り広げられた、多様な民族の文化と交流の歴史を、「砂漠と草原」「色と形」「技」「装う」「伝える」というテーマにそって展示されている。
 「砂漠と草原」では、動物が家畜化され始めた約1万年前の人々の文化を知る、動物をかたどられたお護りや頸飾りなど、その小さく細かな装飾品の数々が私達の目を楽しませてくれる。
 「色と形」はそのテーマの通り、国や文化を越え影響しあった色と形が個性的に溢れ、「技」ではさらに生活様式に応じて材料を選び、加工技術を編み出し工夫された物が、交易によってだけでなく、物や人の移動とともに技術を伝え磨かれていく流れが、貨幣や陶器から見えてくるようであった。
 「装う」では、ユーラシアの民族衣装が表情豊かに地域・気候・宗教・風習の違う文化を伝え、装具品の数々の魔除けとしての意味を、実物を見ることにより実感させられるのを感じた。
 「伝える」においては、文字の存在の重要性について再認識させられるものであった。形や読み方を変化させ、時代を超えて広まっていく文字。特に楔形文字粘土板文書のその一文字の細かさにもまして、印として刻まれたその模様の美しさには感嘆したものである。

3.神奈川県立歴史博物館

 神奈川県立歴史博物館は、丸いドームを冠した、 横浜開港文化の空気が漂う通りのなかで、ひときは重厚な建物である。これは明治を代表する洋風建築の一つであり、 日本最初の国際金融金庫にして、日清・日露戦争の軍事費をまかなった、旧横浜正金銀行本店本館の建物であるという。 しかもこの建物の設計は、日本に初めて近代的な建築をもたらしたとされるコンドル氏に教えを受けた妻木頼黄(さいき・よりなか)氏 によるもので、関東大震災や大戦においても生き残った、近代建築物としては珍しく国の重要文化財にし指定されている。 重厚な造りは、当時にとってまさに近代化の象徴といったところであろうか。

 常設展では@さがみの古代に生きた人々、A都市鎌倉と中世の人々、B近世の街道と庶民文化、C横浜開港と近代化、 D現代の神奈川と伝統文化、など日本の歴史の主要な舞台となった神奈川の歴史が、5つの時代区分にわけられてあった。 その中でも、「横浜開港と近代化」はペリー来航150周年として、大きく騒がれているだけに興味深いものであった。

 また、今回は特別展として「黒船」と銘打ち、ペリー来航150周年記念展が行われており、 私達の好奇心を満たしてくれるものであった。しかも、運のいいことに、ボランティアの方による解説も同時にお聞きすることができた。 黒船図に始まり、アメリカ船浦賀渡来図、ペリー提督日本遠征記などの貴重な資料の数々。 オランダ風説書にみられる日本と他国との情報のやりとりは、知れれざる当時の日本の状況と外交政策、情報能力を知ることができ、 ひととおりでない資料の解説は、おもしろく裏話なども聞けあっという間の時間であった。

終わりに

 休日に外出をする。横浜や桜木町には来たことがあったが、今回の関内は始めてであった。関内といえば誰もが思い浮かべるのは、 中華街であるだろうし、私もついこの間までそうであった。しかし、今回の研修を通してあらためて知ったこと、 気づいたことは多数であり、それは今までの認識を変えるのに十分なものであっただろう。関内=中華街は、 今では横浜の開港・近代歴史文化として私の中で認識されている。もちろんショッピングや飲食店情報は防大生にとって 重要であるだろうけれども、横浜の開国時代の建物に囲まれながら、ふとこうしてゆったりと知的探求にのりだすというのも いいのかもしれない。



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