金沢文庫は、北条実時が自らの書物を収蔵するために開設した施設図書館であり、今日においてはその跡地に博物館が設けられている。
今日においては「かなざわぶんこ」と呼称されているが、古くは「かねさは」(「さ」を「さ」と発音したか「ざ」と発音したかは不明)と言われた。文庫は「ふみくら」とも読まれたことからも分かるように、今日でいう「書庫」というような意味である。
当初、鎌倉市中において設けられたものの、火災により消失、以後火を避けるため、市中より離れた地にあった実時の別荘に隣接して再建された。今日残る遺跡から彼の菩提寺である称名寺、金沢文庫、別荘は一本の道で結ばれていたと考えられている。
北条実時は、北条実泰と天野政景の娘の子であり、祖父は2代執権北条義時。金沢北条氏の実質的な初代であり、子に北条顕時、実政などがある。
天福元(1223)年に北条実時は、北条泰時を烏帽子親に元服、翌年には父より小侍所別当職を譲り受ける。その後2代に亘り執権の引付衆を務め、評定衆、越訴奉行などの要職を歴任した。金沢文庫の蔵書をこのときの仕事上の書類といわれている。病のため職を退いた後は、武蔵国六浦金沢の別荘にて余生を送った。文化人としても著名である。
彼の書庫、金沢文庫は多くの学僧に利用され、かの「徒然草」の著者兼好法師も利用したと伝えられる。
北条氏の滅亡後は時の有力者たちに漸次書物を持ち出された。特に徳川幕府初代将軍徳川家康公は金沢文庫の書物を多く江戸城中の富士見文庫へ移したことで知られる。このように衰退してしまった金沢文庫であったが、近世になり転機を迎えることとなった。
明治30年に伊藤博文らにより称名寺境内に閲覧所として書庫を再建されることとなった。関東大震災により一時倒壊するものの、昭和5年に再建され、図書館、塾として使われたが、昭和30年に歴史博物館として再出発することとなった。
昭和40年代には住宅開発の波にさらされるものの、昭和47年に国指定の史跡となり、称名寺を囲む3山の稜線の景観は保たれることとなった。展示品について
今日の金沢文庫の展示は鎌倉北条氏の歴史を、伊豆での地方領主時代から鎌倉幕府滅亡までを時間を追って展示している。
伊豆時代の素焼きの食器と、鎌倉中期における釉薬を用いた食器の違いなど北条氏の衰勢を如実に表しているように感じた。その他、重文や神奈川県文や仏像や上人像、結界記、古文書、またその複製が展示されている。
これらは神奈川県、そして鎌倉北条氏の歴史を知るうえで欠かせないものである。