3期 谷田邦一
(1)テーマ
「米国の軍事戦略と米軍の日本駐留-
国防総省から見た在日米軍基地の意義の変遷」
(2)構成
序
ソ連に対抗する目的でできた日米安保体制は、
ソ連の崩壊とともに、その当初の使命を終えた。
日米同盟は、冷戦終結とともに解消される運命にあったといえるが、
現実には同盟関係はその後も存続し、
日本列島には冷戦期と変わらぬ規模の米軍基地と兵力が維持されている。
冷戦終結で同盟の役割が変化したとしても、米軍基地や駐留兵力までが、
同盟存続の前提条件としてそのまま維持される必然性はない。
ソ連の軍事力という強大な脅威が消えた後であれば、
なおさら大幅に削減されてもおかしくなく、
平時に重武装した大規模兵力が
依然駐留を続けている現実は自明の理とは言えない。
それでは、なぜソ連の脅威が消えた冷戦後も、
米国は日本の軍事基地を必要としてきたのだろうか。
冷戦終結をはさんで、米国にとっての在日米軍基地の意義は、
どう変化したのだろうか。これが本論文の問題意識である。
論文では、米国政府とりわけ国防政策を担当する国防総省が、
自国の軍事戦略の中に日本の米軍基地をどう位置づけ、
その意義をどう評価し、どういう議論を重ねてきたかに着目する。
その上で、できるだけ米国の公刊資料や議会証言を手がかりにして、
米国側の考え方の変化を分析し、
在日米軍基地の意義がどう変遷してきたのかを明らかにする。
分析の期間としては、冷戦終結をはさむ前後の時期を対比させる必要から、
主に米ソが対決を深めた1979年の新冷戦から、ソ連の体制崩壊を経て、
日米が新たな安全保障関係を構築する97年までの間を取り扱う。
この期間を、ソ連対抗型の冷戦期、関係模索の移行期、
新たな安全保障関係を構築した冷戦後の3つに区分し、
それぞれの時期の在日基地の意義や機能・役割について比較する。
第1章 米国の海外基地
ここでは、海外基地に対する米国の考え方を整理して説明する。
米国がどういう目的で海外基地を保有し、
どんな機能や役割を持たせてきたか、また、基地の種類、
軍事技術と基地の関係、維持コストの問題などにも触れ、
歴史的な経緯を織り交ぜながら
概括的に海外基地に対する米国の考え方をまとめる。
参考文献:
・アフルレッド・マハン(尾崎主税訳)『海軍戦略』興亜日本社、1942年
・James R. Blaker, United States Overseas Basing, Westport, 1990.
・Paolo E. Coletta(Editor), K.Jack Bauer,(Associate Editor),
United States Navy and Marine Corps Bases Overseas, Westport, 1985.
・John W. McDonald, Jr and Diane B. Bendahmane edited,
U.S. Bases Overseas-
Negotiations with Spain, Greece, and the Philipines, 1990.
第2章 ソ連の脅威への対抗
まず、冷戦期のうち、主として米ソが再び対決を深めた1979年から、
冷戦が終結する1989年までの間の在日米軍基地の意義を探る。
新冷戦以降の分析に入る前に、米国が戦後、
日本にどんな戦略的な価値を見出してきたかを概観する。
日本占領以来、米国はソ連に近接した日本の地理的特性や
潜在的な工業技術力・人的資源に着目し、
ソ連の拡張主義に対抗するには、日本を西側陣営に組み入れることが
不可欠であるとの認識を深めた。
米国は核の傘と攻撃力を提供するのと引き換えに、
日本からは基地提供と極東地域での軍事行動の自由を確保してきた。
冷戦期の40年余を通じ、米国の戦略の根幹は対ソ核抑止にあった。
在日基地はその一翼を担い、日本の防衛だけでなく、
極東の地域紛争を阻止する目的も合わせ持つ
米軍の「出撃拠点」の役割を担ってきたといえる。
新冷戦に入り、ソ連の軍事力がさらに増強された80年代も、
この構図は変わらない。
在日米軍基地は、韓国・フィリピンの基地とともに、
対ソ抑止の目的をもった米軍の前方展開戦略を支える礎石であった。
日米同盟は、ソ連の軍事的脅威という共通の目的をもっており、
両国は経済摩擦の中にあっても強固な安全保障の絆で結ばれていた。
それを裏付けるものが、自由に使用できる固定的な基地の提供と、
大規模な兵力に対する受け入れ支援であった。ソ連の軍事力の増強に伴い、
米国はさらなる責任分担(バードン・シェアリング)、すなわち財政支援と
自衛隊による戦力補完を日本に求めるようになっていった。
第3章 新たな安全保障関係の模索
次いで、米ソが冷戦終結を宣言した1989年から、共通の脅威を失った日米が、
新たな安全保障関係の構築に取り組み始める1994年までの移行期を扱う。
米国の安全保障戦略は、
ソ連・東欧の体制崩壊や湾岸戦争などの情勢変化を反映し、
「ソ連封じ込め」から、新たな世界戦略の策定に向けて動き出した。
それに伴い、日米両国もソ連対抗型の同盟から転換を始めたが、
互いに安全保障面で新たな展望を見出せないまま模索が続いた。
米国では潜在化していた日本の軍事大国化への警戒感が表面化した。
日本も湾岸戦争や北朝鮮危機で有効な対米支援策を打ち出せず、
冷戦型の日米同盟は摩擦やぎくしゃくぶりを際立たせた。
ソ連の脅威に代わる新たな絆を欠いたまま、日米関係は揺れ動いた。
一方、米国の軍事戦略は、ソ連封じ込めから地域紛争の対処へと転換され、
湾岸戦争の教訓をもとに前方展開戦略は引き続き重視された。
アジア諸国の急速な経済発展で、アジア・太平洋地域は、
米国にとって死活的に重要な経済市場へと成長しつつあった。
米軍のプレゼンスの主要な役割は、地域の安定化へと変わり、
いったん打ち出された兵力削減計画も、北朝鮮の核開発疑惑や
フィリピンからの米軍撤退を理由に凍結され、
兵力の縮小規模は欧州に比べると小幅にとどまった。
在日米軍基地はこうした変化を反映して、徐々に機能や役割を変えていく。
冷戦期の要塞型の対ソ「出撃拠点」から、
艦船や航空機の通過・寄港といったアクセス機能が重視され、
より広域化した地域で米軍活動を支える
「後方支援拠点」へと性格を変えつつあった。
ただし、冷戦型の日米安保体制の枠内での変化であったことや
米国の視点が定まっていなかったため、
国際情勢が激変した割には変化はさほど大きくなかった。
第4章 地域紛争への対応
最後に、日米が新たな安全保障関係の構築に取り組み始めた1994年から、
周辺有事の対米支援を可能にする新ガイドラインが97年に
日米間で了承されるまでの間の在日米軍基地の意義を探る。
この間、日米政府は安保体制の見直しに取り組み、
96年には日米共同宣言によって日米同盟の役割が再定義された。
この時期は、日本の米国離れを懸念する米国の外交・国防関係者らによる、
日米の新たな安全保障関係の練り直し作業で始まった。
折しも、北朝鮮の核開発疑惑や台湾海峡の緊張が高まっており、
日本には直接の脅威が及ばない
周辺有事の対米支援策の整備が、焦眉の急になっていた。
日米関係は、冷戦期には想定していなかった
新たな領域での協力関係の構築をテコにして、
冷戦後の安全保障の枠組み作りを進めていった。
ちょうど同じ時期、米国では、
冷戦後の外交・防衛の拠り所となる国益の再定義が行われ、
経済重要の姿勢を一層明確にした。
貿易額ではトップとなったアジア・太平洋地域は、
欧州と並ぶ重要地域になった。
米国の軍事戦略もこの線に沿って見直され、
軍事プレゼンスは地域の経済活動を支え、
安定を維持する手段と見なされるようになった。
また、地域の安定を脅かしかねない脅威として、
中国がはっきりと意識されるようになった。
在日米軍基地は、同地域で米国の国益を支える前方プレゼンスの拠点として、
再び重視されるようになった。同時に、アジア・太平洋地域だけでなく、
ペルシャ湾をも視野に入れたグローバルな米軍の軍事活動に対する
支援拠点へと性格を変えていった。
結び