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応用分析化学 国内学会等 海外学会等 NIST留学記 NDA留学記

【報告-第16回】 2000年11月17日掲載 

~ 超VIPきたる ~

- フォーリー駐日大使の講演 -
秋の防衛大学校は、行事が目白押しです。
10月中旬には、米国のトーマス・S・フォーリー駐日大使(71)が来校。
「アメリカと日本・新時代に向けての永続的な同盟」という講演がありました。
米駐日大使が防大で講演するのは初めてだそうです。
西原正学校長とは旧知の間柄という事情もあって、実現したようです。
ヘリコプターで東京湾を横切っておいでになりました。 









トーマス・フォーリー駐日大使

話題の中心は、冷戦後の国際社会の平和と安全に日米同盟が将来どう関わっていくのか、でした。 大使が特に強調したのは、平和維持活動(PKO)や人道援助活動に対する日本の積極的な参加です。 現状では、停戦合意などPKO参加のための5原則がネックとなっていて、 参加分野が制限されているというのが大使の認識でした。 警察官など限定的な人的派遣にとどまった東ティモールを例に挙げて、 「日本がPKOのいろんな側面に貢献することを国際社会は期待しています」 と述べ、5原則の凍結解除を含む積極策を日本政府に促していました。 確かに国内のPKO論議はこのところ低調です。若き士官候補生を刺激する狙いからでしょう。 しめくくりにちょっぴり刺激的な言い回しもありました。 「これから先、何年または何十年の間には、 国際社会が人道援助または平和維持活動のために介入する義務がある と感じるような危機が起きると思います。 この義務感は、罪のない被害者を助けようという 道義的な必要から来る場合もあるし、侵攻を阻止しなければ みんなを脅かすようになるという認識から来る場合もあるでしょう。 いずれにせよ、日米が解決に手を差しのべる必要性を感じるような 危機が発生するでしょう。そのときのためにも準備をしておきましょう。 私たち日米がずっと支持してきた国連憲章の原則を守るために、 行動を起こせるような用意をすることが必要です。」 約1600人の本科生(大学生)は神妙に聞き入っていました。 しかし、大使は講演の中で、朝鮮半島や台湾海峡など不安定な地域情勢を支える日米同盟の 軍事的な側面にはあまり言及しませんでした。 ちょうど中国の朱鎔基首相が来日中だったこと、 また、南北朝鮮の対話プロセスが進行中だったためでしょうか。 さすがに、学生たちから質問が出ましたが、慎重な言い回しでかわしていたのが印象的でした。 会場にいて一番おもしろかったのは、講演を前に学生リーダーが 「今日の講師は超VIPなので、きちんと聞くように」と号令をかけていたことです。 そうか、米国大使は「超VIP」か。 中曽根康弘元首相や弁護士の中坊公平さんが来校した時には、こんな号令はかかりませんでした。 これも密接な日米同盟のたまものかもしれません。 - キャンパスで「アウトプット」 - 箱根駅伝で有名な山梨学院大学(甲府市)で、今年も 「ジャーナリストの見た防衛庁・自衛隊」と題し、小講話をするチャンスをいただきました。 たまにはアウトプットもしなきゃと思い、10月中旬にうかがいました。 でも、やっぱり人前で話をするのは難しい。いい勉強になりました。 美術館のように美しい 山梨学院大学のキャンパス

9月に摘発された自衛隊漏えい事件を取り上げました。 先月の「防衛大留学記 15」でも少し触れましたが、国際政治や防衛問題などいろんな角度から 冷戦後の日本の社会を見るのに格好の素材でした。 「日ロ領土交渉」、「防衛庁の秘密」、「公安捜査」と見方を大きく3つに分け、 それぞれの背景にあるものを説明しました。
詳しい内容は割愛しますが、こんなレジュメを作ってみました。
朝日新聞記者 谷田邦一
■「自衛隊情報漏えい事件」の見方
(1)国際政治として……
 ・冷戦後も続く各国のスパイ狩り
   :EUが調査に乗り出した「エシュロン」、
         中国系米国人の核技術スパイ疑惑
 ・平和条約締結交渉との関係
   :日ロ首脳会談の難航と事件摘発のタイミング
 ・ロシアは友好国、それとも潜在的敵国?
   :冷戦思考をひきずる日本
(2)防衛問題として……
 ・防衛庁・自衛隊の「秘密」
   :ずさんな管理、指定基準の不明確、膨大な件数
 ・防衛交流の活発化
   :どこまで胸襟を開いていいのか?
 ・駐在武官による情報収集活動
   :公然活動なのか、諜報活動なのか
(3)公安事件として……
 ・「スパイ事件」と言えるのか:おおっぴらな「密会」
 ・警視庁公安部の壁:刑事事件より捜査情報が頼り
 ・事件の深層:??

■日本の防衛問題の見方

(1)安全保障の観点をどこに置くか……
     リアリズムとリベラリズムの違い[米国は日本をどう見てきたか]
(2)国家利益、住民生活どちらが優先?……
     基地問題から始まった日本の論議[沖縄の基地問題の行方]
(3)冷戦後の変化……
     「国境防衛型」の独自路線[日米安保の変質]
聞いてくださった学生さんはおよそ50人。 世界的に話題になっている国際通信傍受システム「エシュロン」(岩波書店の『世界』10月号参照) をよく知っている人がいたり、質問も、 「小林よしのりさんの『戦争論』をマスコミ界はどう受け止めたか」とか、 「どうして政府は高価な自衛隊装備品の 国内生産にこだわるのか」など、いろいろ出ました。 話は変わりますが、この大学の美術館のような美しさと 話題の豊富さにはいつも驚かされます。

山梨学院大というと、最近ではシドニー五輪・競泳の萩原智子選手の活躍が思い浮かびますが、 五輪に参加したのは陸上選手やレスリングの監督などを合わせると5人もいたそうです。 古屋忠彦学長から昨年お聞きしたところでは、 私立大学はどこも少子化現象で学生集めに苦心しているそうです。 この大学では、授業でもさまざまな工夫をこらしています。 私がお世話になった法学部の国際政治の授業(小笠原高雪助教授)では、 実社会で活動している様々なジャンルの講師を呼んできて、体験を学生に紹介しています。 今年度は、外務省や防衛研究所、NGOなどから10人近い専門家が来校し、 ホットな話題を提供しています。 学生は、感想をレポートにまとめて、教官の講評をもらう仕組みですが、 マスプロ教育だったわが大学時代に比べると、うらやましい限りです。 - 冷や汗ものの「中間発表」 - 士論文の作業は一進一退の迷走を続けています。 わがテーマは、米国にとって米軍の日本駐留や在日米軍基地の意義が、冷戦終結をはさんで どう変遷したかに焦点をあてるものです。 目下のところ、アカデミズムの世界で言う「有意性」をどう盛り込むかに苦労しています。 最近、横須賀市内にできた「hideミュージアム」 hideさんはロックバンドX-JAPANの元メンバー

「有意性」とは、他の研究にはないセールス・ポイントのこと。 自分の論文によって、 同じような研究分野に学術的な貢献ができなければなりません。 自分の知識を高めるだけではいけないのです。 膨大な日米研究のなかで、独自色を出すのは至難です。 12月に行われる学内の論文発表会まであと数カ月。それを前に、
自分の論文の全体構想(構想の骨子はこちら)と
3期 谷田邦一
(1)テーマ

「米国の軍事戦略と米軍の日本駐留-
                      国防総省から見た在日米軍基地の意義の変遷」

(2)構成



ソ連に対抗する目的でできた日米安保体制は、
ソ連の崩壊とともに、その当初の使命を終えた。
日米同盟は、冷戦終結とともに解消される運命にあったといえるが、
現実には同盟関係はその後も存続し、
日本列島には冷戦期と変わらぬ規模の米軍基地と兵力が維持されている。

冷戦終結で同盟の役割が変化したとしても、米軍基地や駐留兵力までが、
同盟存続の前提条件としてそのまま維持される必然性はない。
ソ連の軍事力という強大な脅威が消えた後であれば、
なおさら大幅に削減されてもおかしくなく、
平時に重武装した大規模兵力が
依然駐留を続けている現実は自明の理とは言えない。

それでは、なぜソ連の脅威が消えた冷戦後も、
米国は日本の軍事基地を必要としてきたのだろうか。
冷戦終結をはさんで、米国にとっての在日米軍基地の意義は、
どう変化したのだろうか。これが本論文の問題意識である。

論文では、米国政府とりわけ国防政策を担当する国防総省が、
自国の軍事戦略の中に日本の米軍基地をどう位置づけ、
その意義をどう評価し、どういう議論を重ねてきたかに着目する。
その上で、できるだけ米国の公刊資料や議会証言を手がかりにして、
米国側の考え方の変化を分析し、
在日米軍基地の意義がどう変遷してきたのかを明らかにする。

分析の期間としては、冷戦終結をはさむ前後の時期を対比させる必要から、
主に米ソが対決を深めた1979年の新冷戦から、ソ連の体制崩壊を経て、
日米が新たな安全保障関係を構築する97年までの間を取り扱う。
この期間を、ソ連対抗型の冷戦期、関係模索の移行期、
新たな安全保障関係を構築した冷戦後の3つに区分し、
それぞれの時期の在日基地の意義や機能・役割について比較する。


第1章 米国の海外基地

ここでは、海外基地に対する米国の考え方を整理して説明する。
米国がどういう目的で海外基地を保有し、
どんな機能や役割を持たせてきたか、また、基地の種類、
軍事技術と基地の関係、維持コストの問題などにも触れ、
歴史的な経緯を織り交ぜながら
概括的に海外基地に対する米国の考え方をまとめる。

参考文献:
・アフルレッド・マハン(尾崎主税訳)『海軍戦略』興亜日本社、1942年
・James R. Blaker, United States Overseas Basing, Westport, 1990.
・Paolo E. Coletta(Editor), K.Jack Bauer,(Associate Editor), 
  United States Navy and Marine Corps Bases Overseas, Westport, 1985.
・John W. McDonald, Jr and Diane B. Bendahmane edited, 
  U.S. Bases Overseas-
  Negotiations with Spain, Greece, and the Philipines, 1990.


第2章 ソ連の脅威への対抗

まず、冷戦期のうち、主として米ソが再び対決を深めた1979年から、
冷戦が終結する1989年までの間の在日米軍基地の意義を探る。

新冷戦以降の分析に入る前に、米国が戦後、
日本にどんな戦略的な価値を見出してきたかを概観する。
日本占領以来、米国はソ連に近接した日本の地理的特性や
潜在的な工業技術力・人的資源に着目し、
ソ連の拡張主義に対抗するには、日本を西側陣営に組み入れることが
不可欠であるとの認識を深めた。
米国は核の傘と攻撃力を提供するのと引き換えに、
日本からは基地提供と極東地域での軍事行動の自由を確保してきた。

冷戦期の40年余を通じ、米国の戦略の根幹は対ソ核抑止にあった。
在日基地はその一翼を担い、日本の防衛だけでなく、
極東の地域紛争を阻止する目的も合わせ持つ
米軍の「出撃拠点」の役割を担ってきたといえる。
新冷戦に入り、ソ連の軍事力がさらに増強された80年代も、
この構図は変わらない。

在日米軍基地は、韓国・フィリピンの基地とともに、
対ソ抑止の目的をもった米軍の前方展開戦略を支える礎石であった。
日米同盟は、ソ連の軍事的脅威という共通の目的をもっており、
両国は経済摩擦の中にあっても強固な安全保障の絆で結ばれていた。
それを裏付けるものが、自由に使用できる固定的な基地の提供と、
大規模な兵力に対する受け入れ支援であった。ソ連の軍事力の増強に伴い、
米国はさらなる責任分担(バードン・シェアリング)、すなわち財政支援と
自衛隊による戦力補完を日本に求めるようになっていった。


第3章 新たな安全保障関係の模索

次いで、米ソが冷戦終結を宣言した1989年から、共通の脅威を失った日米が、
新たな安全保障関係の構築に取り組み始める1994年までの移行期を扱う。

米国の安全保障戦略は、
ソ連・東欧の体制崩壊や湾岸戦争などの情勢変化を反映し、
「ソ連封じ込め」から、新たな世界戦略の策定に向けて動き出した。
それに伴い、日米両国もソ連対抗型の同盟から転換を始めたが、
互いに安全保障面で新たな展望を見出せないまま模索が続いた。
米国では潜在化していた日本の軍事大国化への警戒感が表面化した。
日本も湾岸戦争や北朝鮮危機で有効な対米支援策を打ち出せず、
冷戦型の日米同盟は摩擦やぎくしゃくぶりを際立たせた。
ソ連の脅威に代わる新たな絆を欠いたまま、日米関係は揺れ動いた。

一方、米国の軍事戦略は、ソ連封じ込めから地域紛争の対処へと転換され、
湾岸戦争の教訓をもとに前方展開戦略は引き続き重視された。
アジア諸国の急速な経済発展で、アジア・太平洋地域は、
米国にとって死活的に重要な経済市場へと成長しつつあった。
米軍のプレゼンスの主要な役割は、地域の安定化へと変わり、
いったん打ち出された兵力削減計画も、北朝鮮の核開発疑惑や
フィリピンからの米軍撤退を理由に凍結され、
兵力の縮小規模は欧州に比べると小幅にとどまった。

在日米軍基地はこうした変化を反映して、徐々に機能や役割を変えていく。
冷戦期の要塞型の対ソ「出撃拠点」から、
艦船や航空機の通過・寄港といったアクセス機能が重視され、
より広域化した地域で米軍活動を支える
「後方支援拠点」へと性格を変えつつあった。
ただし、冷戦型の日米安保体制の枠内での変化であったことや
米国の視点が定まっていなかったため、
国際情勢が激変した割には変化はさほど大きくなかった。


第4章 地域紛争への対応

最後に、日米が新たな安全保障関係の構築に取り組み始めた1994年から、
周辺有事の対米支援を可能にする新ガイドラインが97年に
日米間で了承されるまでの間の在日米軍基地の意義を探る。
この間、日米政府は安保体制の見直しに取り組み、
96年には日米共同宣言によって日米同盟の役割が再定義された。

この時期は、日本の米国離れを懸念する米国の外交・国防関係者らによる、
日米の新たな安全保障関係の練り直し作業で始まった。
折しも、北朝鮮の核開発疑惑や台湾海峡の緊張が高まっており、
日本には直接の脅威が及ばない
周辺有事の対米支援策の整備が、焦眉の急になっていた。
日米関係は、冷戦期には想定していなかった
新たな領域での協力関係の構築をテコにして、
冷戦後の安全保障の枠組み作りを進めていった。

ちょうど同じ時期、米国では、
冷戦後の外交・防衛の拠り所となる国益の再定義が行われ、
経済重要の姿勢を一層明確にした。
貿易額ではトップとなったアジア・太平洋地域は、
欧州と並ぶ重要地域になった。
米国の軍事戦略もこの線に沿って見直され、
軍事プレゼンスは地域の経済活動を支え、
安定を維持する手段と見なされるようになった。
また、地域の安定を脅かしかねない脅威として、
中国がはっきりと意識されるようになった。

在日米軍基地は、同地域で米国の国益を支える前方プレゼンスの拠点として、
再び重視されるようになった。同時に、アジア・太平洋地域だけでなく、
ペルシャ湾をも視野に入れたグローバルな米軍の軍事活動に対する
支援拠点へと性格を変えていった。


結び
論文の一部を持ち寄って、小所帯のグループで検討する 「プロジェクト科目」の中間発表が、10月下旬にありました。 この科目では、似たテーマを選んだ学生が1人ずつ、複数の教官による猛烈な集団指導を受けます。 あらゆる角度から容赦ない批判を仰ぎ、その後の執筆の糧にするのが狙いですが、 努力不足だと再起までかなり時間がかかります。 私も1時間半に及ぶ指導で、山のような課題や注文をいただきました。 今回ご指導をいただいたのは、 主に日米関係を専門とする田所昌幸教授、神谷万丈助教授、河野仁助教授の3人です。 ある教官いわく、 「米国のドキュメントの羅列ではあるが、それに対する解釈の記述が少ない」。 また別の教官いわく、 「資料批判が足りない。資料がすべて正しいと思ってはだめ」。 さらに別の教官いわく、 「この論文には逆説がない。『だから、何?』となっちゃう」。 う~ん、ご説ごもっとも。また、つらい日々が続きます。
Q and A
 今回の問題は、防衛庁・自衛隊が派遣している防衛駐在官と各国の駐在武官の違いについてでした。 

 防衛庁も、海外の軍事情報の収集のために、防衛駐在官と呼ばれる駐在武官を海外の32大使館、
 1代表部(ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部)に派遣しています。
 その総数は42人(1998年現在)。
 このうち複数を派遣しているのは、米国の6人、ロシアの3人、中国と韓国の2人です。

 外国の在日公館で駐在武官・補佐官を配置している国は、現在26カ国(ロシアは6人)ですから、
 だいたい各国並みといえると思います。 
 彼らの仕事は、派遣先国の軍事情報を集め、本国に伝えることです。

 この情報収集活動は法に触れない限りは、公然活動として認められています。
 そのほか本国からの来訪者の接遇にもあたりますが、知人の駐在官経験者によると、
 日本の場合はとくにこちらの業務に忙殺されることが多く、
 「観光案内係」のような役回りを強いられることがあるそうです。 

 諸外国の駐在武官との違いはいろいろあります。
 例えば、防衛駐在官は防衛庁から直接派遣されているわけではありません。
 いったん外務省に出向し、外務官という肩書きを合わせ持って現地に赴任します。
 親元が外務省ですから、収集した情報も直接、防衛庁に送ることはできず、
 現地大使館や外務省を経由して同庁に送られるため、最終目的地まで届かないケースもあるそうです。 

 ある駐在官経験者によると、
 各国の武官で組織する武官団会議やパーティーの席上での情報収集、情報交換が最大のチャンスで、
 次いで個人的なコネクションによる政・官・民の人脈へと広がるそうです。
 現地の求めに応じて、日本を紹介する講演を引き受けることもあるそうです。 

 ソ連・東欧の体制崩壊や朝鮮半島危機、湾岸戦争のときの防衛駐在官の活動については、
 海辺和彦『日本大使館付駐在武官』(徳間書店、1993年)といった本があります。 

次回はがらりと趣向を変えて、おカネに関する身近な問題です。
自衛官はどのくらいの給料をもらっているのでしょう。
俸給月額の最低と、最高はそれぞれいくらになるでしょう。自衛官は思っていたより高給取りです。
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