I
N
D
E
X
S
T
U
D
Y
P
H
O
T
O
O
T
H
E
R
 
応用分析化学 国内学会等 海外学会等 NIST留学記 NDA留学記

【報告-第18回】 2001年1月22日掲載 

~ ラスト・ワン・マイル ~

- 「国際政治シンポ」で轟沈 -
世の中は21世紀。ですが、どうも実感がわきません。
正月休暇の3が日を除くと、独房生活のような日々で、自宅から1歩も出ずに終日、
パソコンに向かうこともしばしばでした。
クラスメートの中には、学校の自習室で新世紀を迎えた人もいました。 





修論報告会のリハーサル風景

私たち総合安全保障研究科の学生の20世紀の締めくくりは、教官陣を前にした「修士論文報告会」でした。 12月末に2つの会場を使い、18人の学生が自分の論文について発表しました。 「ASEANの安全保障レジーム」、「中東地域の安全保障協力」、「米国の朝鮮半島政策」……。 国際政治のシンポジウムのような趣でした。 報告会の趣旨は、いわゆる「共犯関係」にある自分の指導教官だけでなく、 他の教官や学生からも厳しい批判を仰ぎ、論文に一層の磨きをかけることにあります。 わが指導教官・田所昌幸教授のすすめは「取り繕わず潔く打たれるべし」でした。 で、体当たりで臨んだのですが、結果はほとんど轟沈(ごうちん)状態でした。 日米同盟そのものをテーマにした発表は私ただ1人。 しかも、防衛のプロである自衛官や日米問題を専門とする教官たちの前で研究成果を披露するのは、 本来なら光栄の至りなのでしょうが、いざ壇上に立つとそんな気持ちは吹き飛んでしまうものです。
レジュメをもとに説明していても、舌がもつれ、顔もひきつり、
「米国の軍事戦略と米軍の日本駐留」
冷戦終結をはさむ在日米軍基地の意義の変遷
1 目的

 ソ連に対抗する目的でできた日米安保体制は、
ソ連の軍事的脅威の消失とともに、当初の軍事的な使命を終えた。
それにもかかわらず、日本列島には、
その後も米軍の大規模な兵力と基地が存続している。
米国は、冷戦終結後もなぜ日本に軍事基地を維持する必要があるのか?
 本研究ではこれを問題意識にすえ、米国にとっての在日米軍基地の
意義の変遷を探ることによって、その解明を試みる。
分析期間は、主として新冷戦の1980年代初めから、
日米安保の再定義を経て、
新ガイドラインが策定される1997年までを対象とする。


2 意義

 冷戦後の日米安保体制の変化についての先行研究は数多い。
しかし、在日米軍の基地や兵力そのものが、
冷戦終結をはさむ米国の軍事戦略の変化のなかで、
どのように役割や機能を変えていったのか、
また、なぜ冷戦期とほぼ同じ規模でそれらが存続しているのかは、
必ずしも十分に解明されているとはいえない。
こうした問題を明らかにするために、本研究は、
日本の米軍駐留に言及している米国政府の公式文書や議会証言に着目し、
米国側の意図の変遷を浮き彫りにすることを狙いとしている。
資料としては、主に米国防総省の公刊資料や同省関係者による
議会公聴会での証言に加え、実際の米軍部隊の変化を把握するために
米軍の機関紙などを用いる。


3 要旨  

  冷戦終結をはさむ前後の時期を対比させる必要から、分析対象の期間を、
(1)ソ連対抗型の冷戦期
(2)関係模索の移行期
(3)新たな安全保障関係を構築した冷戦後期 - に3区分し、
各章ごとに、それぞれの時期の基地・兵力の意義や機能・役割を比較する。

構成は次の通り。

・序  文…… 問題提起

・第1章…… 米国の海外基地網の成り立ちと、
             海外基地の保有に対する考え方をまとめる。

・第2章…… 1979年の新冷戦の始まりから、
             米ソが冷戦終結宣言する1989年まで。
             日本の基地は、ソ連極東軍の強大な軍事力を
             抑止するための、米軍の大規模兵力を固定的に
             駐留させる前方展開拠点。
             主要な目的は、日本防衛と極東の地域紛争の抑止。

・第3章…… 1989年から日米が新たな安全保障関係を模索した1994年。
             米国の軍事戦略はソ連対抗型から
             地域紛争対処型に移行し始め、
             日本の基地はアジア・太平洋で活動する
             米軍の支援拠点として整備が始まった。
             ところが、湾岸戦争や北朝鮮核疑惑への対応をめぐって、
             両国間に摩擦や不信感が目立ち、
             新たな関係を築きあぐねたため、
             十分な整備は進まなかった。

・第4章…… 日米が新たな関係構築に着手した1994年から、
             新ガイドラインが策定された1997年。
             アジア・太平洋は、米国の経済再生のチャンスを握る
             最重要地域と位置づけられ、地域安定を目的とした
             米軍のテコ入れが進んだ。
             日米は共同して地域安定化に乗り出し、
             日本の基地はペルシャ湾まで拡大した
             太平洋軍の活動を支援する前方プレゼンスの拠点となった。

・結   び…… まとめ


4 結論

 在日米軍基地は、冷戦期には大規模戦力を実際に投入するための
出撃拠点であった。それがソ連の崩壊によって、アジア・太平洋で
兵力規模を縮小した米国の軍事的コミットメントの象徴となった。
ただ、即応対処能力をもつ軍事プレゼンスを、
絶えず広い地域で示すことが必要になり、日本の基地は、
そうした米軍活動を支える基地ネットワークの中軸(hub)へと
位置づけられた。地理的な好位置にあった上に、維持費コストが安く、
さらに受け入れ国からの制約もほとんど受けないなどの
好条件がそろっていたのが、その理由である。
しどろもどりになりながら35分の発表を終えました。 会場からいただいた講評は、「結論が甘い」「分析枠組みが弱い」「解くべきパズルがあいまい」 など手厳しいものばかり。 自分の貧弱なプレゼンテーションに比べて、他の自衛官の発表の完成度が高いことには驚かされました。 職業柄、演習や政策などの立案・説明で慣れているためでしょうか。 パワーポイントを用いたすばらしいプレゼンテーションの数々に、感心してしまいました。 いよいよ論文の最終仕上げ。目指すは2月7日の締め切りです。 マラソンに例えれば、ゴール手前のラストスパート。 新聞記事なら締め切り数分前の勝負。 このところ頭によぎるのは、締め切りに間に合うのだろうか、とか、 無事卒業できるのだろうか、という不安ばかりです。手に汗握る緊迫した日々が続きます。 - 「学生長」は幹部自衛官 - 防衛大学校で学ぶ自衛官の世界が一線部隊と大きく違うところは、 階級による序列を意識しなくてもいいということです。 難しく言えば、学生同士が指揮関係にはないということです。 完成間近の防衛大学校本館。創設50周年記念で新築された。

しかし、総合安全保障研究科に限って言えば、各期のクラスメートは20人前後いますから、 束ねる立場の人が必要になります。 防大ではこの役目をする人を「学生長」と呼びます。 階級の一番高い幹部が引き受けることになっていて、私たち3期では、 海上自衛官の茂津目(もづめ)晴道・2等海佐がつとめています。4期は1等陸佐です。 教官と学生を橋渡しし、陰から全学生の生活を見守り、しばしばやんわりした指導もします。 自分の勉強以外に多くのエネルギーを割かなければならず、その気苦労は大変なものです。 ふだんから大勢の人を束ねる仕事をしている、幹部自衛官ならではの特技ともいえます。 まだ少々早い気がしますが、この2年間を振り返っていただきました。 - 「学生長としての反省と抱負」 - 防衛大学校総合安全保障研究科3期学生長 2等海佐 茂津目 晴道 昨年4月に総合安全保障研究科副学生長、同時に3期学生長として任命された際に、 私自身に幾つかの課題を課しました。 その中で最大のものは、学生のあらゆる面でのレベルの向上に寄与するという、 今思えば過分なものでありました。 茂津目・2等海佐

その時は、安保研究科の創設までの幾多の苦難の道のりを知るに及び、今後の発展の如何は、 学生の質によるところ大であると痛感したからであり、自然と湧き出た心情であったと思います。 果たして学生のレベルは向上したでありましょうか? その答を出すのはやや尚早かと思いますが、正直なところ、 課題自体がそもそも過分なものであったこともあり、合格点には程遠い気がしています。 3期学生は、私を含め実に個性豊かな人材の集まりで、 私が今まで接してきた自衛隊員には見ることができなかった幅広い知識、 あるいは高い語学力を有した者が多く、学生としての学術的資質は十分のような気がしています。 問題は、その資質をいかに成果に活かすかということにあるのだと思います。 そして、そのために貢献しなければならない者の1人は、 学生長としての職にある者、すなわち私でありましたが、残念ながら思うようにはいっておりません。 しかしながら、他大学の研究科では多分考えられない濃密な、 しかも複数の先生方の指導を受けることができるという 恵まれた環境下にあったことで、幾人かの学生は、日々の努力を結実させた力作と呼べる修士論文を、 完成させようとしていることもまた事実です。 その成果は、昨年末に行われた修士論文報告会で現れていたように思います。 そして、報告会の運営が、私の前任の学生長でありました小柳順一・3等陸佐の指導の下、 円滑に進んだことは、学生長として非常に嬉しいことであり、 同時に3期生としての団結もここへ来て高まったことも重ねて喜ばしいことでした。 なんとかこの勢いで、全員無事卒業できるよう気を引き締めていきたいと思っています。 最後に、今後の防大総合安全保障研究科の発展を思い、 学生として研究する上で強く感じたことを述べたいと思います。 それは、すべての学生に該当するというわけではなく、 学生の大多数を占める自衛官に関することになりますが、 端的に言えば自衛官の強みを活かさなければいけないということです。 自衛官であることの強みの発揮、すなわち、充実した気力・体力、厳正な規律、忍耐力、 そして集団生活への適応能力といった長年の教育訓練によって 養われているはずの自衛官としての必要な資質を活かすことは、 学術研究においてもなんら妨げとなるものではありません。 むしろ、間違いなくより良い研究のための重要な要素であろうと、 私はこの1年9カ月の学生勤務で痛感しました。 総合安全保障研究科の卒業生は、単なる勇猛果敢な戦闘員というだけでなく、 あるいは実務とは離れた研究分野で活躍するといった自衛官ではない、 知的でバランスのとれた武人であって欲しいと願うのは、多分私だけではないと思います。 学生が修士論文の完成と同時に人格の一段の向上をなし得た時、 総合安全保障研究科の将来は明るいと思っています。 あと2カ月、成果の如何はともかくその任を全うします。
Q and A
 今回は、戦争犠牲者についての問題です。 沖縄の那覇支局で勤務していた4年前、
 大田昌秀・前知事の『沖縄は訴える』(かもがわ出版、1996年)を読んでいて、
 はっとするくだりがありました。
 米軍用地の強制収用問題をめぐって、ちょうど大田前知事が国を相手に
 裁判闘争をしていたときのことです。
 近代戦の特徴をずばりと言い当てたこの表現は、とても印象的でした。

 なぜ執拗に米軍基地の撤去を求めるのかも、よくわかりました。
 ちょっと長めですが、引用してみます。 

 「第1次世界大戦の時の死者は、軍人が95%を占め、民間人の犠牲者はわずか5%でした。
   ところが第2次世界大戦での犠牲者は、軍人が52%に対し、民間人は48%に増えています。
   では、太平洋戦争ではどうだったかと言いますと、日本本土では軍人の犠牲者が23%、
   民間人が77%となっています。
   それが戦後の朝鮮戦争では、軍人の犠牲者は15%、民間人の死者は85%です。
   さらにベトナム戦争では、軍人の犠牲者はわずかに5%なのに比べ、
   民間人の犠牲者は、じつに95%にも及んでいます」 

 「このような結果をみると、軍事力でもって一般国民の生命、財産を守ることは、本当に可能だろうか、
   と反問せずにはおれません。
   よく国防とは、軍隊による国民の生命、財産の確保が第一の任務と言われますが、
   ひとたび戦争が始まると、守護の対象となるはずの民間人が犠牲にならずにすむかと言うと、
   非常に疑問です。
   (中略)
   戦争で一番大事にされるのは、敵を殺傷する戦闘能力に優れた軍人たちだからです」 

 その後、防衛大学校で戦争法の勉強をしていて、
 足立純夫『現代戦争法規論』(啓正社、1979年、219頁)から引用されていたことに気づきました。
 戦争で犠牲になりやすい文民を法的に保護することも大事ですが、
 それ以上に戦争そのものを起こさせない努力の方が ずっと重要であることは言うまでもありません。 

次回は、21世紀に入って、日米同盟は日本を含む多角的な安全保障体制によって
取って代わることが可能かどうか、という問題です。
多角的安全保障とは、3カ国以上の国をメンバーとする安全保障体制を指します。
中国やロシアなどとの安全保障対話がさかんに行われるようになりましたが、
さて、その実現の可能性はどうでしょう。 
ページのトップへ戻る